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ISBN 978-4-89801--
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ニュース記事から

Interview オピニオンを聞く 永田 和宏 氏

Geriatric Medicine Vol.56 No.4 2018-4
 
第18回 がん患者の想い,家族の想い

黙って傍にいてあげるだけでいい
歌に大切な人たちへの想いを遺す
~在宅療養で共有された家族の時間~

 世界の第一線で活躍する細胞生物学者であり,わが国を代表する歌人の一人である永田和宏氏.2010年8月,永田氏は最愛の妻・河野裕子さんを乳がんによって喪った.やはり戦後を代表する歌人であった河野さんの10年間の闘病の日々を,永田氏はその著書『歌に私は泣くだらう』(2012年新潮社刊,現在は新潮文庫)に克明に記している.今回は,永田氏にがん患者と家族の心の葛藤と変化についてうかがい,また,超高齢化した日本社会と医療との関係についての考察をいただいた.日常生活が激変し混乱をきたすがん患者と家族の想いが直截に語られた本記事には,永田氏の了解を得て,永田氏と河野氏の歌・文章を随時引用させていただいた.

がんに対してどう向き合うか
~患者と家族の想いがすれ違う時~

──まず,2000年の秋に河野裕子さんが乳がんと診断された当時についてうかがいます.永田先生ご自身は,がん細胞の研究に長く関われていたこともあり,複雑な想いがあったのではないでしょうか.

 うちの場合はちょっと特殊で,河野が歌人であり,繊細な神経の持ち主であったこと,それは最初からわかっていましたので,私が一番怖れたのは,がんそのものよりも彼女が打ちひしがれてしまうのではないかということでした.

 もともと私の研究者としてのスタートは,京都大学のウイルス研究所から結核胸部疾患研究所に移られた市川康夫教授の下で骨髄性白血病細胞がマクロファージに分化誘導し好中球になるまでのプロセスを研究するものであり,その後も米国国立癌研究所(NIH)での研究を踏まえて,帰国後も,癌研究所所長だった菅野晴夫先生の推薦により文部省(当時)のがん特別研究の班長として,がん細胞における熱ショックタンパク質の発現機構の解明などに関わりました.このように臨床医ではないものの,長く日本癌学会などでの活動・研究が私の仕事の中心だったのです.

 河野の乳がんはステージがⅡbとⅢの間で,命の危険性は明らかであり,手術と術後の放射線治療という,その治療方針について私には何の異論もありませんでした.左腋下のしこりが悪性であるという可能性は,京大病院で診てもらったその日に直接河野に知らされています.そのことは,当時の私が働いていた京大の再生医科学研究所にもすぐ電話が入り,私もほぼ同時に知ることになりました.その後すぐにかかってきた河野からの電話は「悪性みたいよ」と割と元気そうな声だったので,どれくらい深刻に感じていたのかわからず,こちらはできるだけ平気な顔をしなければと思いながら,車のキーを手渡すために研究室から出て彼女と落ち合いました.ところが私の顔は全然平気ではなかったようです.その時のことを詠った河野の歌や文章があります.

     病院横の路上を歩いていると,むこうより永田来る
   何といふ顔してわれを見るものか私はここよ吊り橋ぢやない       (河野裕子『日付のある歌』)

  診察を終えて病院の横の路上を歩いていると向こうから永田がやってきた.彼とは三十年以上暮らしてきたが,私を見るあんな表情は初めて見た.痛ましいものを見る人の目.この世を隔たった者を見る目だった.(河野裕子「癌を病んで」西日本新聞,2002 年12 月16 日)

 この歌に対し,私は彼女が亡くなって一年を過ぎてからこんな歌を作りました.

   あの朝の私はあなたであつたのだ吊り橋の下に光が揺れて       (永田和宏『夏・二〇一〇』)

 一見,河野は平気な表情をしていて,車に乗って自宅に一人で帰ったのですが,その時のショックについては次のように彼女は書きました.

 乳癌という思いがけない病名を知らされたあの日の悲しみをわたしは生涯忘れることはあるまい.鴨川のきらめく流れを,あんなにも切なく美しく見たことは,あの時もそれ以後もない.…(中略)…この世は,なぜこんなにも美しくなつかしいのだろう.泣きながら私は生きようと思った.(永田和宏・河野裕子『京都うた紀行』)

 私と河野との関係は少し変わっていて,河野は医学のことだけでなく,全面的に私に依存するというか,どんなことでも私の意見を聞いてから物事を決めるというところがありました.それで私としては自分が動揺してしまったら,おそらく彼女はもっと大きく揺れ動いてしまうのではないか,そういう意識が強く働きました.できるだけ動揺を悟られないようにしようというのが,河野が乳がんと診断されてから何カ月かの間の私の態度だったのです.要するに突っ張っていたんですね.私は「がんなど,なんでもない」と思いたがっていました.本当は不安で一杯だったのだけれど,そこで本人と一緒になって不安がっていては,もうそれだけで負けだという意識がすごく強かった.やせ我慢であったとしても何でもないような顔をしていたい,それは河野に対してもそうだし,私自身の生活にも強いてそんな態度でいようと努めました.手術当日も立ち会った後,横浜の学会に出席するため出かけるほどでした.河野は何もいいませんでしたが,そのような態度が次第に河野の気持ちと大きくすれ違っていったのですね.そのことが当時はわかりませんでした.

   ああ寒いわたしの左側に居てほしい暖かな体,もたれるために      (河野裕子『日付のある歌』)

   今ならばまつすぐに言ふ夫ならば庇つて欲しかつた医学書閉ぢて     (河野裕子『庭』)

   平然と振る舞うほかはあらざるをその平然をひとは悲しむ        (永田和宏『後の日々』)

 左乳房を手術してからの河野は,持病の肩こりが線維化し,それが左肩から背中の方にまで及び,しばしば痛みを訴えるようになりました.また腋窩リンパ節も切除したため,左側に痺れの症状も出ました.こうして2002年頃から年に数回,彼女は著しい精神の変調をきたすようになりました.睡眠薬の乱用も原因していたのですが,不眠と激昂,夜ごと際限なく繰り返される私への憤怒の言葉に,やむなく子供たちを呼び寄せるようなこともありました.

愛しているからこそ憎む
~不安や孤独感がつのる患者の心~

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 申し訳なかったけれど,河野の心というものがその当時はわからなかった.渦中にある現場では,そういうことを冷静に考えられる余裕がないのです.なぜだか理由もわからぬままに,河野は精神的に非常に不安定になり,荒れてきました.今から考えると体の不具合に加えて,原因の1つに“置いてきぼり感”があったのではないかと推測しています.

 河野は歌人として私よりずっと有名で,仕事も最盛期を迎えようとしていた時期でした.ところが,手術のおかげで仕事が十分にできなくなった.自分はこれほど苦しんでいるのに,周りの人間はこれまでと同じ生活をしている.ほかの歌人仲間もまったく変わらずに活躍している.病気をした人は,「なぜ自分だけが?」という意識がとても強くなるようです.「自分だけが世界から取り残されてしまう」という不安に苛まれる.

 一方,私は普段通りにしていることが,連れ合いの精神状態を平衡に保つには大事なことだと思い込んで振る舞っている.こちらが普通にしていればいるほど,不遇感が次第に強まっていったのでしょう.私の口からいうのも何ですが,河野は本当に私のことを愛してくれていました.その相手が遠くへ行ってしまうのが怖い.それでどういう反応に出たかというと,私に対して怒りを爆発させて,自分の方を振り向かせる.あるいは「がんになったのは,あなたのせいだ」といって逃げられないようにするという行動になったのです.家出をして,娘と迎えに行ったこともありました.修羅のような場面も何度か経験しました.

   風呂の蓋(ふた)洗ひながら歌ふ歌もなし夫(つま)や子遠し彼ら働く  (河野裕子『葦舟』)

   この人を殺してわれも死ぬべしと幾たび思ひ幾たびを泣きし       (永田和宏『夏・二〇一〇』)

不安を誰かに聞いてほしい,聞いてくれるだけでいい
~木村敏先生との出会いから共感する大切さに気づく~

──それはお互いにとって辛い状況ですね.

 術後4年ほどが経った頃,京都博愛会病院で外来をもっておられた精神科医の木村敏先生のところに週に1回,河野は通うことになりました.木村先生は京大で私と同僚だった時期があり,これまでの事情をすべてお話ししてお願いしました.木村先生は,ご自分でどうこうはいわれず,ただ聞き役に徹しておられたようです.もちろんそれで急に河野の状態がよくなったわけではないのですが,一進一退を繰り返しながら,それでも河野はゆっくりと確実に回復していきました.河野が木村先生に出会えたということは,医師と患者という関係を越えて,晩年には本当に大きな意味をもつようになりました.

 これは今ならわかるのですが,やはり私自身に足りなかったのは,河野の話を聞いてあげる時間をもてなかったことです.これが大きかったと思います.先ほどいったように,病人というものは世界から置いてきぼりになったように感じてしまう,その不安を誰かに聞いてほしい,聞いてくれるだけでいいのです.ところが病人そのものを,周りの状況もひっくるめて全部受け入れるということが,傍にいる人間にはなかなかできません.そこまで譲ってしまうと,もうダメになってしまうのではないかと思ってしまう.河野が何かネガティブなことをいうと,そんなことはない,科学的には違うんだという言い方をしてしまうこともありました.

 演劇作家の平田オリザさんに『わかりあえないことから』という著書があって,その中にこんなエピソードが出てきます.ホスピスに50代の働き盛りの男性ががんの末期で入院してきて,奥さんがつきっきりで看護しています.その奥さんが医療スタッフに「効かない解熱薬を何で使うのか?」と文句をいいに来る.スタッフは「他の薬との兼ね合いで効果が少し出にくくなっていますが,もう少し頑張りましょうね」と説明し,その日は奥さんも納得するのですが,また次の日も同じ文句をいいにやって来る.スタッフは,あの人はクレーマーではないのかと思ってしまうわけです.ある時,ベテランの医師が回診に来て,その奥さんはやはり同じ質問をします.その医師は薬の説明は何もせず,ただ「奥さん,辛いね」と声をかけた.奥さんはわっと泣き崩れて,次の日からはその質問をしなくなったそうです.私はこの部分を読んだ時,不覚にも泣いてしまいました.

 つまり普通の人は,患者(あるいは家族)が話す,その内容に反応してしまう.でも何をいっているかということが問題なのではなくて,そういわざるを得ない人の気持ちをどこまでわかってあげられるのか,そして寄り添うことができるのかが大切だと平田さんはいうのです.

 私は河野に本当に申し訳なかったのですが,それができていなかったことを彼女が亡くなって数年してからようやく理解しました….でもこんなふうに悟ったようなことをいっていますが,次に同じようなことが起こった時,どういう態度がとれるかというとまったくわかりません.とにかく,悲しんでいる人に対して,何か気の利いたことをいってやろうとするよりも,ただ横にいて同じように悲しんでくれる人がいるという,それだけでその人は安心できるだろう,今はそんな気がしています.

濃縮された時間という贈り物
~再発後2年間の二人の過ごし方~

──河野さんは2008年に残念ながら転移・再発が確認されます….

 手術してから丸8年,もう大丈夫だと思っていたのに,再発したという知らせはまさに不意打ちでした.やはり一般的には,がんは5年を目標にして,そこを乗り越えれば一応は治ったと見做されます.それでも乳がんはその期間を長く考える必要があるとはわかっていたものの,その5年が過ぎ,6年,7年と,その1年1年をようやく凌ぎ,もう大丈夫ではないかと希望をもち始めた頃だったのです.油断していました.私には再発が何を意味するかはよくわかっており,自ずから河野の残り時間も計算できました.本当にその通りに亡くなりました….でも河野は意外にそのことを冷静に受け止めていたように思えます.逆に私の方がそれまでの強がっていた部分がすべて吹き飛んでしまって,彼女と同じレベルで嘆いてしまいました.ひょっとすると本人よりも嘆いていたかもしれない.それが河野には嬉しかったのだと思います.そこで初めて,この人は自分のところに来てくれたという気がしたのでしょうね.

    二〇〇八年七月十六日,京大病院
   まぎれなく転移箇所は三つありいよいよ来ましたかと主治医に言へり   (河野裕子『葦舟』)

   大泣きをしてゐるところへ帰りきてあなたは黙つて背を撫でくるる

   俺よりも先に死ぬなと言ひながら疲れて眠れり靴下はいたまま

 

   泣いてゐたのは知つてゐるぜとついてきて畳にこぼれてゐるゐのこづち    (永田和宏『夏・二〇一〇』) 

   あの午後の椅子は静かに泣いてゐた あなたであつたかわたしであつたか

   歌は遺り歌に私は泣くだらういつか来る日のいつかを怖る    

   一日が過ぎれば一日減つてゆくきみとの時間 もうすぐ夏至だ

 辛い抗がん剤治療の日々が続きましたが,それでも河野は仕事を続けました.たまたま,京都新聞の連載企画で,京都と滋賀の歌枕となった地を訪ね,河野と私が交互にエッセイを書くという「京都歌枕」という仕事を引き受けたところでした.その連載は2年間,二人合わせて50回,歌枕の地には必ず二人で出かけました.あの仕事がなかったら最後の私たち夫婦の時間の密度はずいぶん違っていたと思います.連載の最後に対談をして,その後すぐに河野は入院します.そしてこの連載をまとめた『京都うた紀行』(京都新聞出版センター,2010年10月刊行)という本の前書きを河野が書いたのが2010年の7月31日(口述筆記),その後,8月12日に亡くなりました.

河野 (中略)…それと私の場合は,あなたと一緒に行ったというのが,非常に大きかったですよね.こういう形で時間を共有できたというのは,私には非常に大きな意味を持っていたと思います.病気の所為(せい)で,あと何年生きられるかもわからないというそういう状況の中で,非常に濃縮された時間を過ごすことができたから.その時間を大事にしたいなあと思いましたね.あと何回この人と来ることができるだろうか,だけど,短い残り時間の中で,いま同じ時間を共有している,そういう思いが非常に強かったですよね.(河野裕子・永田和宏『京都うた紀行』対談より)

 永田 僕もこういうことがなければ思い出せないような場所の記憶が,もう一回自分たちの中で思い出せたことがうれしかった.どこにでも記憶の時間っていうのはあるはずなんだけれども,きっと普段どっかに眠ってしまっているんだね.埋もれているはずなんだけれど,歌を読んでその場所に行ってみると,あんなこともあったよねと,おのずと思い出されて,自分たちの時間がどんどん掘り起こされてくる.書かせていただいて,自分たちで喜んでいては申し訳ないのだけれど.(同上)

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──河野さんが亡くなられる最後の1カ月余りはご自宅で過ごされたのですね.

 そうです.6月に京大病院に入院し,抗がん剤の効果はこれ以上期待できないということで,7月7日に自宅に戻ってきました.当初,ターミナルケア専門の病院に見学に行ったりもしたのですが,その時に看護師さんや医師が訪問してくれる在宅療養の制度があることを知りました.河野にそのことを伝えると,彼女は家に帰りたいと強くいいました.病院で入院している状態は,いくら家族が頻繁に通ったとしても,やはりそこは非日常です.私や子供たちも,最後は自分たちが生活してきた場所で死なせたいという想いがすごく強くなっていました.河野もそれを望んだのです.偶然にも自宅にエレベーターを付けていたおかげで,2階で自分の家の庭や家族が生活している様子を眺めながら,最後の時間を家族とともに過ごすことができました.

 実はこの頃の河野が亡くなる前2カ月くらいの間に詠んだ歌が,彼女の生涯の代表歌の一部になっています.病院に入院していた頃から,暗くなってからも何かしら書いていたようで,手帳ばかりでなく,ティッシュペーパーの箱や薬袋にも歌が記されていました.いよいよ最後になると,河野は話をするように呟いて,それが自然と歌になっていたのです.私も含めその場にいる誰かが口述筆記をしました.

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 今になってみると,本当にその通りだと思います.やはり歌人だから,後世に遺るような歌を作りたい,歌人のプライドが作らせたのだという意見も一部あったようですが,そうではない.日常の言葉を使って自分の想いを誰かに伝えることはかなり難しいことです.でも私たち歌人は,歌の中で,歌の言葉でなら本当のことがいえる.河野の場合も,最後は私に向けて,自分の想いを歌の形で届けてくれた.私はそう思っています.そしてその歌が,一般の人たちにもある種の普遍性をもって理解してもらえたのだと信じています.

   長生きして欲しいと誰彼数へつつつひにはあなたひとりを数ふ       (河野裕子『蝉声』)

   あなたらの気持ちがこんなにわかるのに言ひ残すことの何ぞ少なき

   さみしくてあたたかかりきこの世にて会ひ得しことを幸せと思ふ

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   手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が

 これらの歌を自分の手で書き遺せたことが,私の誇りになっています.河野は亡くなる前日まで歌を詠み続けることで,それをさせたかったのだと思います.これこそが河野の思いやりであって,自分の想いを夫に書き取ってほしい,それを書き取った記憶が自分が死んだ後にも慰めになるだろうと思ってくれていたのでしょう.

 こうしたことは河野の最後の歌集『蝉声』を作る時に気づきました.いろんなところに書き散らかされたものを,私の家に娘と息子と私の三人が集まって,「この字は何ていう字やろ?」なんていいながら夜遅くまで読み解いていると,「ああ,河野はこれをさせたかったんだな」と腑に落ちたのです.

 河野は自分が死んだ後,私が一人になってしまうのをすごく心配していました.でも河野が歌を遺してくれたおかげで,息子が来て,娘が来て,親子三人での貴重な時間を共有することができた.これこそが河野が望んでいたことなのだとつくづく思いました.つまり,彼女にとっては死んでいくことよりも私を残していくことのほうが辛かったのだろうということです.それで最近,私はこんな歌を作りました.

   遺し逝くはうの辛さをまた思ふ わが母の場合わが妻の場合                  (永田和宏『午後の庭』)

   残さるるわれをあはれみ残しゆく己を哀(かな)しみ汝(な) が夏はありき

 そういえば,河野は子供たちに「お父さんはさみしい人なんだから一人にしないでね」ということをよく口にしていました.私の母は私が三歳の時に結核で亡くなっていて,母親の記憶というものを私はほとんどもっていません.その分河野は私に対して母の役割も果たさなければという想いが強かったのだと思います.

──今のお話で,在宅医療が終末期を迎える患者や家族にとって素晴らしいものだと改めて感じることができました.

 在宅での看取りについては,それができない人もかなり多くいる現実を考えれば,そう簡単にいくものでもないと思います.自宅での療養ができないのは家族が薄情だからというわけではありませんからね.ただし,亡くなる方にとっても,送る方にとっても,それが日常の連続として,生活の場の中で行われることが一番幸せな形ではないかとは思います.今そのシステムが発達して訪問看護や疼痛コントロールも非常にうまくできるようになった.そのことに私は感謝しています.

 ただ河野の場合,最後の最後には医療用モルヒネを使わないでくれと私が主治医の先生にお願いしました.過酷だったかもしれませんが,その選択だけは河野が歌を作る上で必要なことだと思ったからです.それでも先生はうまく痛みをコントロールしてくれて,最期の時,それほど痛がったり,苦しがったりはしませんでした.この選択だけは,河野にとっていいことをしてあげられたと私は思っています.

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──ありがとうございました.最後になりますが,超高齢化した日本社会での,人の生き方,家族の在り方,医療に対する期待などへのお考えがありましたらお願いします.

 地球上のほぼすべての動物にとって,たくさんの子を産み育て,次世代を増やすということが最大のミッションです.したがって,その子らが一人立ちするまで生きることができれば,その後は死ぬのが普通でした.ところが20 世紀以降,この流れから人類は外れてしまいます.医療の発達が大きく影響し,子育てを終えた後も人間はものすごく長い時間を生きられるようになりました.こんな動物は人間とペットだけです.そうすると,子供の世話という役割が終わった後の人生は,もう自分のために生きる.この切り替えこそが長寿社会で生きる大事なポイントになるのではないかと思います.

 “自分のため”といっても,夫婦ならばお互いのために生きればいい.でもいずれは夫婦もどちらかが先に亡くなるので,やはり自分がやりたいことをもつことは大切です.それはスポーツでもいいし,何らかの表現形式でもいいでしょう.最近は定年になってから俳句や短歌に打ち込む人も増えてきました.何もすることがないとなると,どうも衰えてくるばかりです.それではいくら高齢者医療を充実させても追いつくことは難しい.そもそも病院に患者を収容するという形の医療がまず破綻するのではないでしょうか.高齢者が自分のやりたいことをして,できる限り自宅で生活し,寝たきりになった場合でも何らかのサポートによって自宅で生活できるような体制を作る.そういう方向でなければ,おそらく日本社会は維持していけません.その中で大切になるのがネットワークだと私は考えます.まず高齢者同士のネットワークを作ること.もう1つは地域医療のネットワークの構築です.この2つがうまくリンクすれば,一人暮らしの高齢者が自宅で過ごすということも可能になると思います.

 一家庭に子供が一人か二人という時代ですから,子供が親の介護までなかなか手が届きません.それができないために,今ではどんどん特別養護老人ホームのような施設に送り込まざるを得なくなっている状況があるようです.私は長く朝日歌壇の選者を担当していますが,寄せられる投稿歌には親の介護をテーマにした歌がとても多くなっています.これは1つの社会現象になっていて,介護施設に親を送る際の後ろめたさや認知症の親に対する哀しみなどがしばしば詠われているのです.この20年ほどでそんな歌がどんどん増えてきました.つまり介護施設に送り込んだらそれで終わりではない.自宅でできる限り元気に生活できるような環境を整える必要があり,それをサポートする体制としてのネットワークが機能するかどうかが問われているように思えます.

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 一人暮らしのお年寄りでも1日1回メールでおしゃべりができるような,生きる張り合いのあるネットワークができるといい.そんなネットワークが広がり,しばらく連絡がないような人には医療スタッフから連絡がいくという形になれば理想的です.これからの社会には絶対に必要になるシステムです.そのためにも,まずは一人ひとりが自分のために生きること,自分が楽しめるための関係づくりを真剣に考えてほしいと思います.
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参考文献
1) 永田和宏:歌に私は泣くだらう─妻・河野裕子闘病の十年─,新潮文庫,東京,2015.
2) 河野裕子,永田和宏:たとへば君─四十年の恋歌─,文春文庫,東京,2014.
3) 京都うた紀行─歌人夫婦,最後の旅─,文春文庫,東京,2016.
4) 河野裕子,永田和宏,永田淳,永田紅,植田裕子:家族の歌─河野裕子の死を見つめて─,文春文庫,東京,2014.
5) 河野裕子:第十歌集 日付のある歌,本阿弥書店,東京,2002.
6) 河野裕子:第十一歌集 庭,砂子屋書房,東京,2004.
7) 河野裕子:第十四歌集 葦舟,角川書店,東京,2009.
8) 河野裕子:第十五歌集 蝉声,青磁社,京都,2011.
9) 河野裕子:わたしはここよ,白水社,東京,2011.
10) 永田和宏:第十歌集 後の日々,角川書店,東京,2007.
11) 永田和宏:第十二歌集 夏・二〇一〇,青磁社,京都,2012.
12) 永田和宏:第十三歌集 午後の庭,角川書店,東京,2017.
13) 永田和宏:もうすぐ夏至だ,白水社,東京,2011.
14) 永田和宏:あの午後の椅子,白水社,東京,2016.
15) 平田オリザ:わかりあえないことから─コミュニケーション能力とは何か─,講談社現代新書,東京,2012.
16) 池田理代子,平田オリザ,彬子女王,大隅良典,永田和宏:続・僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう,文春新書,東京,2018.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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